イケてる.com

24歳サラリーマンが、挑戦を続ける人たちの『イケてる』人生を掘り下げ、伝える、インタビューブログです。

-キックボクサー・上田 誠也-


-キックボクサー・上田誠也-

戦う人への憧れ、そして、「強くなりたい」という思いを小さい頃から持っていました。そんな僕の目に飛び込んできたのは、魔娑斗や山本KIDといった、「K-1」を盛り上げていた人たち。当時は地上波テレビで放送されていて、年末になるとテレビにかじりついていました。ヘビー級と違い、スピードの詰まった戦いがカッコよくて。「俺も出たい!」と思ったんです。


SEIYA(上田誠也・うえだせいや)/1996年生まれ/キックボクサー/「MAD MAX ジム」所属/小学2年で空手を初め、キックボクサーに転身。


はじめて格闘技に触れたのは小学2年生の時でした。近所にある空手道場の見学に行ったのですが、「ノンコンタクトルール」。いわゆる〝寸止め空手〟だったんです。殴り合いがしたかった自分には響かず、入門しませんでした。


魔裟斗vs山本〝KID〟徳郁

その時ちょうど、同じサッカーチームの友達が極真空手系の道場に通っていると知り、見学に行くと、まさに求めていたモノだった。殴って、蹴って。空手には色んな流派があるのですが、「これだ!」と思ったんです。




-キックボクシング-

空手の通算成績は、優勝が30回、準優勝が11回、3位が9回。中学3年までの成績です。なかには全国大会も含まれています。

流派によって大会が分かれるため一概には言えませんが、「日本一」の称号は10回弱、手にしました。心の底から好きな競技で、ある程度の結果を残すことができていた当時は相当、楽しかったですよ。


(獲得した大量のトロフィー)

14歳の時に空手と並行してキックボクシングジムに通い始めていました。最初は軽い気持ちだったのですがアマチュアの試合に計3試合、出ると、「プロとして試合してみないか」と誘いを受けたんです。

16歳の時。そのまま空手の道を極めるという選択肢もありましたが、本来の夢であった「K-1」に近いのはキックボクシングだと思った。オファーを受けて、プロデビューを決意しました。



-K-1

ちょうどその頃、K-1界はバタバタしていて、グランプリが開催されない年などもありました(2011年)。でも、僕がキックボクシングのプロとして3試合を終えた頃に「新生K-1」が立ち上がったんです。

目標を失いかけていました。格闘技に対する気持ちが中途半端になることも正直ありました。でも、本来の夢だったK-1が復活して、さらに、大阪にジムができたんです。迷わず移籍することに決めました。

キックボクサーとしての初戦は「Krush(クラッシュ)」の名古屋大会で、KO勝ちすることができました。


初勝利時の写真(krush)

試合内容、勝ち方が評価されて2戦目は格上の選手と対戦するも、負けてしまいます。その後も試合を重ねて2勝2敗となったところで、ある決断をします。それは、東京のジムに移籍することです。20歳の時でした。

現状を変えたかったんです。大阪には練習相手や指導者が少なかった。一方で、東京には、強豪選手と一緒に練習できたり、一流と呼ばれる指導者の教えを受けられる環境がありました。

入ったばかりの大学をすぐに辞めて、バイトも辞めて、決断した1週間後には東京に飛び込んでいました。このまま留まるくらいならチャレンジをした方が良い、と。



-こんなもんじゃない-

想像していた通りレベルの高い環境で練習ができたし、実戦経験を積むこともできました。K-1の前座に出て勝利したり、中国での試合では明らかなアウェー判定を受けたこともありました。どれも大きな経験です。

勝った時の周りの人の反応は、何にも代えがたい喜びを感じます。「誠也の試合を見に来てよかった!」と言ってくれたり、思ってもらえるのが何より嬉しいですね。やってきて良かったと、心の底から思います。

ただ...。皆が喜んでくれる試合でも、自分にとっては満足できない試合ばかり。「こんなものじゃないのにな...」と思っています。それが、努力を続けられる原動力でもあります。「次はもっと良いモノを見せなあかん!」と思えるし、こんな情けない試合でも喜んでくれるなら、理想の勝ち方ができればもっともっと楽しませられるはずだ、と思うんです。

現在の拠点は大阪。年数回の試合に備えて練習しながら、2つの飲食店でのアルバイトと、障害を持つ小学生のお世話をする「放課後デイサービス」というアルバイトをしています。計3つ、かけもちです。

格闘技だけで食っていくには頂点に立たないといけない。そのために日々、微調整の連続です。試合ごとにいろんな課題が生まれますから、練習の大半の時間をその修正に使います。

ポイントを踏まえて次の試合にどう組み立てていくか。そこにプラスして、試合を通じて動ける体力を付けていく。それらが今の課題です。



-証明したい-

今までめちゃくちゃな人生を送ってきました。格闘技に対しての気持ちがブレた事は一度や二度じゃありません。ヤンチャして、格闘技の道から逸れた事もあります。

それでもいまこうやって、周りの人に支えられながら、「世界チャンピオン」という夢を思い出して、突き進んでいます。だから、証明したい。どれだけ道を逸れても夢さえ持っていれば人間は頑張れるんだと、証明したいんです。

そのためには結果が一番。とにかく、「世界チャンピオン」になりたい。いや、なります。その夢は小さい頃からずっと変わりません。

夢はデカく持ったもん勝ちやと思うんです。その気持ちが強ければ強いほど理想に近づけると思うし、たとえそれが叶わなかったとしても、得るモノが必ずある。訪れる困難に立ち向かった事実が財産になります。

そういう意味では、挑戦することにマイナスは無いかもしれませんね。プラスでしかない。だから、夢を大きく持ち続けて、いつまでも挑戦を続けていきます。




-人生観-

やりたい事だけで生きていくにはリスクがあります。ただ、その選択をすることによって、1つの事を突き詰める覚悟が生まれるんです。

たとえば嫌な仕事をモヤモヤしながらやると、自分にも、周りにもマイナスだと思う。だったら、前向きになれる、自分が本当に好きな事にとことん力を注ぐべきだと思います。

僕の場合はそれが格闘技だった。だから、毎日、刺激を感じながら生きることができいるし、その刺激があるから「頑張ろう!」と思えるし、「世界チャンピオンになりたい!」という明確な目標があるから、現状に満足せず、常に上を目指して生活ができています。



-不満のある現状から
抜け出せない人へのメッセージ-

選択肢はいくらでもあるので現状に不満があるなら今すぐ変えるべきだと思います。視野を広く持っていろんな事に挑戦してみる。

僕は小さい頃から好奇心が旺盛でした。サッカー、バスケ、野球、卓球、書道にギター。とにかくいろんな事を経験して、本当にやりたい事は何か?と考えていましたね。その中で残ったのが格闘技だった。それは人によって違うと思うので、いろんなモノを見て、体験すれば、新しい自分に出会えると思うんです。(終わり)

取材・編集:巻木 周平(マキギ)

-カムネッツ・逸崎 友誠-



-カムネッツ・逸崎 友誠-

祖父が創業した、歯科材料・歯科医療器具の製造、輸入、通信販売を行う「株式会社 カムネッツ」の営業部で働いています。

ほんの3年前まで野球漬けの人生を送ってきて、高校時代には日本代表に選ばれた経験もありますが、小さい頃から今でもずっと憧れている祖父の背中を追い越したいという思いがあり、この道を選択しました。


逸崎 友誠(いつざき ゆうせい)/1995年生まれ/高知・明徳義塾夏の甲子園に2度出場し、高校日本代表入り。大学2年で野球を引退し、3年春から語学留学。2018年4月から株式会社カムネッツへ入社。




-「プロになりたいと思わなかった」-

小学4年から野球をはじめ、高校時代には高知・明徳義塾で甲子園に2度出場しました。中学時代から「寮生活がしたい」と思っていて、大阪桐蔭に行きたかったけど、熱烈なオファーを受けたわけではなかった。だから、本気で求められている環境に進もうと思い、高知県に渡りました。


2012.13年の夏の甲子園に出場。

1年秋から少しづつ、試合に出始め、2年夏の決勝戦では甲子園を決めるサヨナラタイムリーを打つことができました。そして、3年時にはキャプテンとして夏の甲子園に。

高知大会4連覇がかかっていた年でもの凄いプレッシャーでしたが、なんとか乗り越えることができ、高校日本代表にも選出されました。

ただ、不思議なことに「プロ野球選手になりたい!」と当時は思っていなかったんです。小さい頃は夢の1つでしたが、高校時代には、その気持ちが無くなっていました。


2013年には日本代表に選出。



-「普通」が嫌だった-

それは、祖父の存在があまりにも偉大だったから。小さい頃、当時すでに会社を経営していた祖父の話を聞くのがものすごくおもしろかったんです。学校の先生をはじめ、他の大人とは全然違った。なかでも記憶に深く残っているのが、この言葉です。

「普通の行動をしていても、
普通の人間にしかなられへんぞ」

世間の言う、「普通の人間」になりたくないのなら人とは違う努力をしないといけない。人と違う道を歩まないといけない。肝に命じてきたその考え方が爆発したのは大学2年の時でした。

1年春から試合に出始め、秋にはレギュラーになったものの、「このまま周りと同じように野球をしていて大丈夫なのか?」「環境を変えるべきではないか?」と思うようになったんです。

ちょうどその頃、ある先輩に出会いました。同じ大学野球部の山岸さんです。山岸さんは一度野球を休部して、海外留学に行っていた。僕が1年の夏頃に野球部に帰ってこられて、仲良くしていただく中で、山岸さんの人柄や考え方がすごいなと思い、尊敬していたんです。留学していた事を知らなかったけど、仲良くしているうちに知り、話を聞かせてもらいました。

「勉強になった」
「世界観が広がった」
「考え方が変わった」

実は留学したいという思いはどこかで持っていたんです。祖父も「経験した方が良い」という考えだったし、何より当時は明確な目標が無かった。野球で生きていくわけでもないし、これといった、なりたい職業も無かった。

ぼんやり「社長になりたいなあ」と思っていたくらいでした。そんな時に山岸さんから留学の体験談を聞いた。人間として尊敬する先輩が人生の財産にしているこの体験を、自分も早く経験したい! 密かに持っていた思いが、膨れ上がっていきました。



-自分の道は自分で決める-

2年秋で野球に区切りをつけようと決めました。もちろん色んな人に相談したし、家族には「4年間頑張ってほしい」と言われたけど、自分の人生は自分で決めるもの。

自分のやりたいことがしたい、と説得しました。2年の秋に野球部を退部し、まずは英会話教室に通って基礎を学び、3年の3月から、ロサンゼルスに渡りました。

基礎を学んでいたとはいえ、現地に行った当初はほとんど聞き取れませんでした。ホームステイ先のおばあさんから説明を受けたけど、「シャワーは1日1回」「近くにマクドナルドがある」。

この2つしか理解できなかった(笑)。幸い、同じ家にスイス人の同級生が入ってきて、彼が親切に教えてくれたおかげで少しずつ学んでいきました。

語学学校に日本人が数人、いましたが、ほとんど外国人。そんな環境だから、習得のペースは早かった。自分では気付いていなかったけど、4ヶ月の留学期間を終えて帰国すると「早いな!」と驚かれました。日常会話ならスムーズに話せますし、海外旅行は1人でストレスなく行けるレベルです。

英語を使えるようになった事はもちろん、考え方の違いを直に体験できたのが本当に良かったですね。壮大で寛大。

細かいことは気にせず、物事を大きく捉えて、行動を選択していく。ものすごく視野が広がりました。何度も言いますが、本当に行って良かったです。



-今しかできないことは何?-

帰国後ほどなくして就職活動をはじめます。コンサルティング業界に興味を持っていたので、関連企業の説明会やインターンに参加しました。そのなかで、大学時代にお世話になった山岸さんが働いている「船井総研」を受けることに決めました。

山岸さんも僕と同じく親族に経営者がいて、それまで色んな話を聞かせてもらい、考え方、人間性を心から尊敬していました。だから、「一緒に働きたい!」と。が...、最終面接の直前まで進んだものの、不採用という結果に終わります。

相当落ち込みましたが、何もしないわけにはいかない。その後は「投資」にのめり込みます。20代の若者が投資って聞こえが悪いけど、仲間と本気で勉強して、本気で取り組みました。

バイトなどで貯めたお金を全て使い、徹底的にやりました。FXやバイナリー、仮想通貨取引、海外ファンドから不動産まで。徹底的にやり込んで、結果を出して、1年もしないうちに投資だけで生きていけるまでになりました。

その過程で多くの人と繋がって、「起業したい」と思うようになりました。仲間たちも「友誠がやるなら付いていく」と言ってくれていた。ただ...。モヤモヤがあったんです。それは、祖父の存在です。

このまま投資などの仕事を続けても良いけど、いつか、祖父の会社に入って背中を追いかけたいという気持ちはずーっと持っていました。当時、僕は大学4年生。人生の選択を迫られている時期で、たくさんの人に相談しました。

「今しかできない事を優先した方が良い」

そう言ってくれた人がいました。祖父は現在83歳。会長として現場に携わってはいるけど、先が長いかと言われればそうじゃない。なら、祖父が元気なうちに、ノウハウや考え方を間近で盗みたいと思ったんです。

この言葉が決定打となり、「カムネッツ」への入社を決めました。営業部門が新たに立ち上がることは決まっていて、僕が入ればそこに配属されることも分かっていた。この年齢で新規事業に携われるなんて、そうできる経験じゃありません。



-世界のカムネッツに-

誤解のないように言っておくと、会長の孫とは言え、普通の新入社員として働いています。「カムネッツ」は、歯科材料、歯科医療器具などを取り扱う会社。祖父が、初めに立ち上げた歯科器具メーカーを売却して、通販会社として2001年に設立しました。

日本だけでなく、海外の商品やOEM仕入れてネットで販売。また、オリジナル商品の開発を行う製造部門もある。僕はその会社の新規事業のとして、歯科医、歯科技工所に自社製品を売る営業部門の立ち上げに携わっています。

ジルコニア」、「レジンブロック」という2種類の歯科材料を売り込むのがミッションです。新規開拓がメインですから連日の飛び込み営業で、チームは5人。うち3人が新入社員です。そのうち2人は、学生時代に共に投資で成功した仲間なんですよ。

起業を断念した時にカムネッツの事を話したら、「一緒にやりたい」と言ってくれたんです。その2人を含めた最高のチームで、日々、地域を絞り込むなど自分たちで戦略を立てて、活動しています。

何も知らない世界で、一から勉強して、一から知識を叩き込んで、新規のお客様にアタックして、興味を持ってくれて、買ってくれるかどうか。その過程全てにやりがいを感じています。

お客様と言っても、歯科医、歯科技工士と、プロが相手。商品に関してお客様の方が詳しかったりするので、ハードルは高い。ただ、カムネッツの商品の品質の高さは業界内で有名ですから、あとは自分という人間をどう売り込んでいくかが勝負でもあります。

全く知らなかった業界ですが、やってみたらおもしろいですよ。知らない事を知れる喜びもありますし。今はただの新入社員ですが、将来はトップに立ってやっていくんだ、という気持ちは常に持って仕事しています。

会長の孫だからと言って、流れでトップになれるほど甘い訳がない。とにかく結果を出して、実力をつけていきたい。

まずは大阪で数字を作り、その後は東京に進出したいと思っています。そして、いずれは海外も...。本気です。新しいモノからどんどん売れていく業界ですから、販売力と同時に、研究開発も伸ばしていかないといけない。

僕が作るわけじゃないけど、上手く連携を取りながら、カムネッツの商品を世界に広めたい。世界です。世界を開拓するのが夢です。世界の「カムネッツ」にしてみせます。(終わり)


取材・編集:巻木 周平(マキギ)

「今」を生きる。『城後 響』②




-マーくんに憧れて-

ボクシングに出会うまでは根っからの野球少年でした。2005年。北海道の駒大苫小牧が連覇した夏の甲子園決勝を、母親と2人で見に行ったんです。

今はヤンキースで活躍する田中将大が2年生ながら優勝投手になった姿に衝撃を受けました。小学2年から野球をやっていた僕はプロ野球選手になるのが夢でしたが、その時から「甲子園で優勝したい!」と思うようになりました。

高校野球を見に行ったのは人生初だったけど、いまでも記憶に焼き付いていて、離れません。


城後 響(じょうごひびき)/1993年生まれ/プロボクサー。高校3年でキックボクシングに出会い、大学からボクシングに転向。日本ランカー入りを目指す。戦績は7勝2敗


地元・大阪から甲子園に行きたいと思っていて、当時強かったのは大阪桐蔭PL学園

大阪桐蔭に行きたかったけどスポーツ推薦をもらえるような選手じゃなかったから、学力で入学できて、野球も強い学校を目指そうと思い、近代付属に進みました。

僕が中学3年の時に南大阪大会でPL学園に勝って、甲子園に出場していたんです。見学に行って、監督から話を聞き、入学を決意。偏差値が少し足りなかったためにめちゃくちゃ勉強して、なんとか合格しました。

入学後も一定以上の成績を残さないと練習に参加できない方針だったから、勉強と野球、どちらも全力で取り組む高校生活でしたね。



-整体師-

甲子園で優勝したいと思って入ったものの、パッとした成績は残せませんでした。2年の秋に初めてベンチ入りしたけど、レギュラーにはなれず、3年時にはベンチ入りすら厳しい状況。

野球よりも、学校の休み時間が楽しみ、という生活になってしまいました。結局、最後の夏は大阪予選の3回戦で敗退。甲子園の夢は意外にもあっさり終わってしまいました。

将来についてあまり深く考えていませんでしたが、整体師という職業に興味を持った時期がありました。

治療を受ける側として体の仕組みの話を聞いたとき、「おもしろいな」と思ったんです。

野球部引退後、現役時代に通っていた整骨院の先生に勧められて、専門学校のオープンスクールに参加しました。


実際に触れてみて、やっぱりおもしろいと思った。でも、両親や先生からは「専門学校に行くと、その道しか進めなくなる」と言われ、たしかに、と。

普通の大学ならいろんな出会いがあって選択肢は広がります。それでも整体師になりたかったらそこから学べば良いと思い、近畿大学への進学することにしました。この選択が無ければ、ボクサーになっていなかったかもしれません。



-今を生きる-

第1回でお話ししたように、プロボクサーになると決意したのは大学3年の時です。周りが就職活動の話を始めた時期でしたが、全く気になりませんでした。

〝あかんかったらあかんかったで、なんとかなるやろ〟と思っていたし、そもそも、自分がやりたくない仕事に就いてどうするのだろう?という疑問もありました。

僕の「やりたいこと」は「ボクシング」だった。その気持ちを我慢して、やりたくないことを仕事にするなんて想像できませんでした。

一般的には大企業に就職するのが良しとされているけど、その先に待っているのは「我慢の人生」です。そんなの、絶対に嫌だった。

先のことを考えこともありません。たとえば「3年後はどうなってるかな...」と不安になる余裕があるなら、今を全力で生きた方が良い。

明日死ぬかもしれないのに3年後のことを考えても意味がないです。だったら、その不安を解決するために努力すれば良いと思います。

僕は本当に「今を生きてる」というか、過去がどうでもいいわけじゃないけど、振り返るよりも今を最高の時間にしたいとしか考えていません。



-メッセージ-

自分の好きなように生きるのが一番です。失敗しても死ぬわけじゃないですから。何を優先するか。やりがいなのか、お金なのか、時間なのか。人それぞれの自由です。

親や奥さん、子供の存在を言い訳にして好きな道に進まない人がいますが、そもそも、反対されて「どうしよう...」と悩んでいる時点で違うかな、と。

本気でその道に進みたいと思っているなら親の意見を変えるくらい熱意を持っていないと成功しないと思うし、逆に、それほどの熱意があれば、必ず伝わると思います。僕はそうしてきたし、これからも変わりません。

終わり

取材・編集:巻木 周平(マキギ)

ー第1回はこちらー

-プロボクサー・城後響-



-プロボクサー・城後 響-

ボクシングだけで満足に食べていけるのは世界チャンピオン、またはそれに近いごく一部の選手だけです。日本チャンピオンでもファイトマネーは1試合につき100万円ほどと言われています。トランクスのワッペンを出してくれるスポンサーからの広告費など、ほかの収入源があっても、1年試合数ですから、決して多いわけではありません。


城後 響(じょうごひびき)/1993年生まれ/プロボクサー。高校3年でキックボクシングに出会い、大学からボクシングに転向。日本ランカー入りを目指す。戦績は7勝2敗。/全2回連載


そんな世界で今ぼくは日本ランキングにも入っていません。「大変ですね」「ツライですね」と思う人がいるかもしれないけど、全くそんなことはない。心から好きでハマったのがボクシングですから。たしかに収入は一般企業で働く同世代よりも少ないと思うけど、〝本当にやりたいこと〟をやっている。自分で言うのは恐縮ですが、生きがいを感じ、日々生活できている。すごく幸せを感じています。






-〝地下格闘技のしょぼい版〟-

高校時代に友人の誘いでキックボクシングジムに通い始めたのが格闘技との出会いです。小学生から続けてきた野球を引退して「身体を動かしたいなあ」と思っていた時期で、もともと格闘技を見るのが好きだったこともあり興味本位で行ってみた。すると、めちゃくちゃ楽しかったんです。


近畿大学に進み、バイトメインの生活のなかでキックボクシングジムに週3日のペースで通っていました。身体を動かすという趣味程度で始めたことが日に日に楽しくなってきた時、ジム長から「試合出てみいひんか?」と言われ、〝地下格闘技のしょぼい版〟みたいなリングに上がりました(笑)。軽い気持ちで出たので当然、負けてしまったけど、なんとも言えない楽しさを感じたんです。それからは本格的に練習し、2試合目で初勝利。完全にハマりましたね。


当時大学1年の秋。ちょうどその頃、過去の不祥事で廃部になっていた近大ボクシング部が復活したんです。キックボクシングをかじっていたから当然のように興味を持ち、体験練習に参加。そこで、ボクシングを始めるきっかけとなる、衝撃的な体験をします。当時の監督と手合わせしたら一切、自分のパンチが当たらなかった。キックボクシング経験者として持っていた自信をへし折られたと同時に、「ここに入って、この人をしばけるくらい強くなりたい」と思いました。すぐにキックボクシングジムを辞め、ボクシング部へ正式入部しました。






-「どこまでやれるか確かめたい」-

「自分よりも先に、
ボクシングを始めた奴に勝ちたい」。

大学時代のモチベーションです。近畿大学のボクシング部は古豪だったこともあり、復活した時にはメディアに大きく取り上げられました。それが小さい頃からボクシングをやってる人にとっては、「強くもないのにチヤホヤされやがって」と思ったようです。嫉妬や反感が生まれたと同時に、ナメられました。それは実際に対戦してすごく感じた。だからこそ、経歴では負けているけど実力で勝ちたい。「そういうやつらを倒したい」という思いでやっていて、通算13勝4敗の成績を残しました。

当時はプロになろうとは考えていませんでした。目の前の試合に勝つ。そのために練習をする。そんな日々が楽しくて、夢中でした。ただ、3年になった時、元世界チャンピオンの名城 信男さんがコーチに就任したことで人生が大きく変わります。プロの話を聞いたり、プロ選手とスパーリングをさせてもらったことで、「プロの世界で自分がどこまでやれるか確かめたい」と強く思ったんです。4年の6月に引退。8月1日から井岡ジムに所属し、9月からプロボクサーとしての人生が始まりました。






-俺がメイン-

プロでの戦績は9戦して『7勝2敗』です。この時点で2回も負けていてはダメで本当に強い選手は無敗でチャンピオンまで駆け上がります。とはいえ、モチベーションが下がることはありません。それは、友達が応援してくれるなかで試合をするという、最高の瞬間を味わえるから。ボクシングには試合の順番があって、メインイベントやセミファイナルなどの注目試合が一番盛り上がるんですけど、僕を見に来てくれる人にとっては、僕の試合がメインイベントです。そうやって、応援してくれる人たちが見ているリングで戦えるのが何よりの生きがいですね。

プロボクサーになって感じているのは〝人と同じことをやっても楽しくない〟ということ。地元でボクサーは僕だけだから、すごく注目してくれるんです。「次試合いつなん?」とか、「体重どうやって落としてるん?」とか、色んな話題をくれる。人と違うことをやっているから興味を持ってくれる。これは、すごく大きなモチベーションになっています。思えば大学時代、ボクシング部が復活した時にメディアがたくさん来てくれて、キャプテンだった僕は多くの取材を受けました。それまでの人生で、他人に注目された経験がなかったからものスゴく嬉しかったし、それがボクサー人生のスタートだったから、今でも熱意を持って続けることができています。


今年中の日本ランキング入りを目標にしていましたが4月の試合で負けてしまい、達成できるかは分かりません。12月16日に今年最後の試合があるので、今はそこに向けて全力で練習しています。昼間に飲食店でバイトして夕方から練習。休みはほとんどありませんが、辛いとか、苦しいと思うことはありません。自分が好きで選んだ道ですから。

ー第2回につづくー


取材・編集:巻木 周平(マキギ)

お金がもらえなくても続ける仕事?『照井 秀芳』②


-まさかの選手兼監督-

父親が少年サッカーチームの監督で兄もサッカー少年。そんな家庭に産まれたものの、僕は野球が大好きでした。小学3年の時にこっそり少年野球の見学に行くと、「試合に出てくれ!」と言われ、ジャージ姿で出場したのを覚えています。夢はもちろんプロ野球選手。「俺がなれないなら他の奴がなれるワケがない!」。そう思っていたくらい自信がありました。


照井 秀芳(てるい ひでよし)/1989年生まれ/「頑張れない環境に居たくない!」との信念から2度の転職を経て、17年1月から外資系金融機関の営業マンに/全2回連載

ー第①回はこちらー




母子家庭だったことから、学費が免除される、かつ、甲子園に行ける高校を探しましたが条件に合う環境はなかなか見つかりません。そんななか、中学1年の頃からずっと声をかけてくれていた鹿児島の神村学園が、創部2年目にして秋の鹿児島大会で優勝したんです。それまでは全く知らない学校で、進路として考えてもいなかった。それが、九州大会ベスト4に入り、甲子園出場を決めた。「これは...」。ものすごい可能性を感じ、神村学園への進学を決めました。

めちゃくちゃ厳しい環境でした。先輩のマッサージをしたり、キャッチボールは胸に投げないと捕ってくれなかったり。入部してすぐに〝イップス〟になりました(笑)。バッティングを評価されて1年の秋にピッチャー兼外野手としてベンチ入りするも、守るところがなくて。その頃から、「プロは無理かなあ」と思いはじめます。それでも母親に「野球を続けさせて良かった」と思わせたかったから、甲子園を目標にして頑張りました。

キャプテンとして迎えた2年の秋は九州大会まで勝ち進むも、監督が暴力行為で訴えられて1年間の謹慎処分を食らいます。コーチも辞め、野球経験のない副部長が監督になりました。試合前のシートノックはOBが打ち、試合中のサインを出すのはキャプテンの僕です。周りに周笑い者にされて、辛かったですね。

それでもオフシーズン(11月頃~)には関西から短期契約で指導に来てくれる方や、父兄の方々が助けてくれました。その間、監督役はずっと僕でした。4月にやっと新監督が就任し、これからだという時期に、僕は全治6ヶ月の手首骨折という大怪我をして試合に出られなくなりましたが、チームは夏の甲子園に創部以来初めて出場。自分が試合に出られず悔しい思いをしましたが、素晴らしい経験ができた思います。




-ビジネスマンとして生きていく-

大阪産業大学で野球を続けるも2年目で辞めることになります。高校と違ってゆるい雰囲気のなかで真剣に取り組むことができなかった。1年時の新人戦では3番バッターを任されたけど2年ではメンバーから外されて。練習に身が入っていなかったことに対して「もっとがんばれ」という指導者からのメッセージでしたが、そこまでして続ける気持ちにはなれなかった。いろんな人が止めてくれたけど、「プロになれないなら」と思っていたので退部を決めました。

その時、人生のスイッチが切り替わりました。野球で食べていけないことが決まったことで、「ビジネスマンとして生きていくんだ」と。そして、今に至ります。一般的な家庭環境ではなかったし、高校では挫折も栄光も経験しました。現職になってからは、本当に意味で「人との繋がり」の大切さを学んだ。紆余曲折ありましたが、全ての経験を糧にして、僕は胸を張って生きています。




-「ごめんな」-

学生時代を振り返って、思い出したことがあります。高校の時、監督がいなかったことから「キャプテンの俺がチームをまとめないと!」という気持ちが強すぎて、同級生から嫌われていました。最後の夏までの期間は骨折のせいで練習ができず、外から強い発言をしたり、怒ったり。やっぱり、同級生に偉そうに指摘されたら腹立ちますよね。

言い方も悪かったと思うし。現役時代はそれでよかったけど卒業してから飲み会や結婚式にも呼ばれなかったんです。逆に自分の結婚式も高校のメンバーは来ていません。高校の集まりは避けてきたし、後輩たちが甲子園に出ても、応援にすら行かなかったんです。それが...。

僕がいまの仕事に就いてしばらくしてから、「照井が頑張ってるらしい」と噂が回ったようで。勇気を出して、集まりに参加したんです。すると、みんなから「ごめんな」とか、「結婚式行ってやれなくてすまんな」と言われたんです。既婚者からは「話、聞かせてや」と金融系の相談をされることもありました。めちゃくちゃ嬉しかった。今まで、周りの人に好かれるような生き方をしてこなかったから。この仕事に就いて、本当に良かったと再認識しています。



-メッセージ-

学生時代にスポーツや勉強を必死にやってきたのに、社会に出た瞬間に守りに入る人が多いです。挑戦してきたはずなのに、給料をもらう立場になると守りに入る。

「今の仕事、
お金がもらえなくても続けますか?」。

そう聞きたいです。たとえば多くの銀行マンは「続けない」と言うでしょう。そんな仕事は今すぐ辞めた方が良い。はっきり言いますが、僕はやります。嘘でも何でもない。それは、明確なやりがい、生きがいがあるから。僕の場合はこの仕事だっただけで、人それぞれあるはずなんです。

そして、「お金がもらえないなら続けない」という人がなぜ辞めないのか理解できません。学生時代に打ち込んできたであろうスポーツや勉強は、お金なんてもらえないけど、頑張っていればプロになれるかも、良い大学に行けるかも、夢の仕事に就けるかも、という可能性を信じて努力してきたわけですよね。社会人になってなぜ、その思いを忘れてしまうのか。

飲みに出れば会社の愚痴を言う人ばかりです。でも、〝結果を出さないと食っていけない環境〟に身を置いていればそんな会話をしている暇がありません。人は弱い方に流される生き物ですから、意識の高い人と出会い、一緒に居ることが大事だと思います。劣等感を感じるかもしれないけど、その壁を乗り越えないと、胸を張って生きていけないと思います。

(終わり)

取材・編集:巻木 周平(マキギ)

ー第1回はこちらー

-外資系金融機関勤務・照井秀芳-



-外資系金融機関・照井秀芳-

「頑張っても頑張らなくても
変わらない環境なら、人は頑張れない」

17年の1月から外資系金融機関の営業マンとして働く僕はこの言葉を人生の指針にしています。学生時代まで挑戦を続けてきたのに社会人になった途端、その挑戦を辞めてしまう人が多く、僕の周りにもたくさんいる。そんな人に僕の人生を少しだけ見てもらいたい。自分で言うのもなんですが、過酷な経験を重ねてきました。それでも前を向き、常に自分を高められる環境に身を置いてきたからこそ、今があると思っています。


照井 秀芳(てるい ひでよし)/1989年生まれ/「頑張れない環境に居たくない!」との信念から2度の転職を経て、17年1月から外資系金融機関の営業マンに。/全2回連載





-1年で〝クビ〟に-

就職活動では損保、保険、銀行などを中心に受けていましたが、兄の友人から「外資系のMRは給料が良い」と聞いて方向転換。片っ端から試験に臨み、数社から内定を勝ち取りました。そのなかで自分の条件に最も合うと感じた『日本イーライリリー』に入社し、社会人として、営業マンとしてのキャリアをスタートさせました。ただ...。結論から言うと1年でクビになります。車の免停中にも関わらず乗ってしまい、見つかって、営業職なのに免許失効。「辞めてくれ」と言われてしまいました。学生気分が抜けていなかったというか...。


成績は優秀でした。ただ、固定給ですから結果を出しても報酬は周りと大きく変わらない。つまり、努力しない人が自分と同等の給料をもらっている環境に、つまらなさを感じていました。 無職になってすぐに転職サービスのリクルートに登録したものの、あの辞め方ですから簡単には決まらない。書類選考で70社くらい落ちましたね。

そんな、手の打ちようのない状況の僕にも熱心に付き添ってくれる女性アドバイザーがいました。前職をクビになっているのに「年収500万以上欲しいです!」なんて言うと、普通は見切られるじゃないですか?しかも、最終面接までこぎつけたのに前日に飲み過ぎたせいで欠席とか本当にバカなことをしていたんです。実際に、他の転職サービスの人には呆れられました。


でもその方だけは「頑張りましょう!」とサポートし続けてくれた。そしてなんと、無職になって3ヶ月が経った時に「リクルートに来ませんか?」と言ってもらったんです。「本社は無理だけどグループ会社なら」と。何度も裏切って迷惑をかけてきたのに。断る理由なんてありません。即答して、13年の8月に「リクルートメディカルキャリア』に入社しました。




-2社目-

医療職のエージェントと病院のコンサルティングが主な仕事でした。医療知識は持っていたしベンチャー気質の会社だから楽しかった。同僚には、前職で結果を残してきた優秀な人材が多くてやりがいも感じていました。ただ...。自慢じゃないですが、常にノルマは達成していて、すぐに成績トップになり、次第に目標、やりがいが薄れていきました。


営業マンとして取材をうけたことも

入社3年目にさしかかり、起業したり、独立する友人がちらほら出てきていて、「このままじゃダメだ」との危機感が芽生えます。そんな、モヤモヤしていた時期にヘッドハンティングされたのが現職の会社でした。それまでも投資ファンドなど複数の企業から誘いはありましたが、全て断っていました。ただ、今回は現状に悩み始めていた時期でタイミングが良かったんです。


リクルートの方々は引き留めてくれました。昇進などの条件を提示されて役員と交渉する日々が3.4ヶ月ほど続き、決断したのは9月なのに最終出社日が決まったのは12月末です。感謝の気持ちがあったのでブレました。フラフラしていた僕を会社に迎え入れてくれた女性アドバイザーの方や、入社後に育ててくれた上司。それでも意志を貫きました。



-3社目-

「お客さんだけ見て仕事をしていいですよ」。そう言われたことが転職の決め手です。ノルマ達成のために嫌がるお客さんに押し売りしなければならないことが何度かあり、嫌で嫌で仕方なかった。が、そこは考えなくて良いと。お客さんに感謝されれば成立するし、自然と紹介もしてくれる。全て自分、結果次第。結果を出せば出すだけ報酬をもらえるシステムはたしかに刺さりました。でもそれだけじゃない。誇りを持って、堂々と営業ができる。その言葉を聞いた時に、「ここだ!」と確信したんです。

17年1月から現場へ出るもいきなり〝挫折〟を味わいます。転職前、リクルートの同僚たちは皆、「(営業に)来て下さいね!」と言ってくれていたのですが、いざ行くと誰ひとり話すら聞いてくれなかったんです。「人生の通信簿が分かる」。そう、上司に言われました。これまでの関係性がホンモノだったかどうかが分かる、と。友達だから、家族だから、元同僚だからと言って話を聞いてくれるわけじゃない。むしろ大半の人に嫌がられるのが金融機関の営業です。


そこからは信頼をゼロから作っていきました。名前だけ知っているような人に電話したり、前々職の人に連絡を取ったり、深い関係ではない人の結婚式の二次会に顔を出したり。そんな日々の中で気が付きます。マネーモチベーションも大事だけど、〝契約してくれた人の担当であり続けることが一番のミッション〟だと。僕の1人目のお客さんはネット広告会社を経営する古くからの親友でした。実績も何もないけど、僕と言う人間を信頼してくれていたから契約してくれた。まず考えるべきなのはお金じゃなく、信頼だった。



-とにかく伝えたい-

セールスマンシップに加えてスポーツマンシップも大事にしています。多くの営業マンはセールスマンシップしか持っていません。「今月あと1件でノルマ達成」という状況になれば、「頼むから入ってや」とお願いする。それはスポーツマンシップに反していますよね。


実際に僕にも好意で「契約するで」と言ってくれる友人がいました。正直、契約は欲しかったけど、「お前がほんまに大切やと思ったなら話を聞いてくれ。そうじゃないなら大丈夫」と言いました。そこを無視して好意だけで契約を取ってもその友人は幸せになれないから。守らなければいけない一線だと思っています。

こんなことがありました。知り合い夫婦の旦那さんが「契約したい」と言ってくれたけど奥さんは嫌がっていた。でも、実際に支払いが発生したとき、「私、お金が出るものと思ってなかったです。ありがとうございます」と言ってもらえた。それが嬉しくて嬉しくて。


まだまだ金融機関の商品に対して懐疑的な目を向ける人が多いです。だから、僕はこれから、保険を〝斜め〟から見ている人や、不信感を持っている人、確かな情報を知らない人にできるだけたくさんお会いして、その良さを伝えていきたいんです。


独立などは考えていません。契約してくれてるお客さんがいるから。それだけです。僕が辞めるということはお客さんを裏切ることになる。商談の際に「担当を続けていくので」と言っている以上、嘘付くことはできません。金銭的な目標はもちろんあるけど、一番は僕という存在を知っている全員に、話をしてあげたい。これから出会う方々はもちろんなのですが、地元や高校、前職など、過去に知り合った人にはほとんど話せていませんから。



-父の死-

現職に就き、改めて痛感しているのが「家族の大切さ」です。ありきたりなことですが、聞いてください。僕が23歳の時、親父が亡くなりました。小学生のときにはすでに離婚していて、母子家庭で育ちました。母親が借金を建て替えさせられていたこともあり、大人になってもずっと親父が嫌いでした。訃報を聞いたときは社会人1年目で仕事の関係で鳥取に居て。電話で知らせてくれた兄には「俺は関係ない」と言いましたが、電話の奥でおかんが泣いていました。血縁者だから、遺体の見つかった北海道に、母と3人で会いにいくことに決めました。


小さな霊安室で袋に包まれた親父がいました。〝会う〟のは高校3年の夏以来だったけど親の遺体を見るのはやっぱりショックで、自然と涙が出ました。「会っていれば良かった」とは思わなかったけど、火葬場に行ったとき、親父、おかん、兄の3人で写っている写真を見たんです。しかもかなり最近に撮られたモノでした。


僕がずっと「嫌い」「会いたくない」と言っていたから、おかんが気を遣って、会わせないようにしてくれていたと思うんです。それを見た時には涙が止まらなくなりました。親父に申し訳ない、何より、『おかんに申し訳ない』と。僕は嫌いだったけど親父からしてみればみんな家族だった。


最後に会ったのは高校3年のときでした。10年ぶりくらいだったけどすぐに分かりました。3人で食事をして、「どこ住んでんの」「またご飯食べに行こうや」と会話しましたが、内心はムカついていた。それが親父との最後の会話です。そういう経験をしたからこそ、「家族を大切に」と胸に刻んでいますし、お客さんをはじめ、出会う方々にも伝えています。



-頑張らない人間にはなりたくない!-

「頑張っても頑張らなくても
変わらない環境なら人は頑張れない」

この言葉を人生の指針にしています。現職のオフィスに掲載されてあり、心を打たれました。僕の場合は、リクルートで一番の成績を残しても給料が大きく変わらない問題に直面した。ずっとそこに居ると「頑張らない人間」になってしまう。そう感じたから転職したわけです。「照井さんはなぜそんなに努力できるんですか?」と聞かれることがありますが、決まって先ほどの言葉を返します。


ー第2回につづくー


取材・編集:巻木 周平(マキギ)

生地を極める。『三川 直樹』②


-このままじゃダメだ!-

就職活動に本腰を入れたのは大学2年の夏でした。第一志望の大学じゃなかったからあまり馴染めず、バイト中心の生活を送っていた時、高校からの友人に誘われて就活系のイベントにゲストとして参加したんです。そこでいろいろな企業の方と接したことで、「このままではダメだ!」と痛感しました。もともとコミュニケーションが得意ではなかったから、「自分を変えないと」と思ったんです。


三川直樹(みかわなおき)/1993年生まれ。『株式会社ポーン』所属。少年時代から好きだったファッション業界へ進む。生地生産から納品までを担当する「テキスタイルコンバーター」/※全2回連載

ー第①回はこちら!ー



-俺には服しかない-

さらに、イベントで知り合った社長さんが開いていたキャリア支援にも参加しました。ディスカッションや面接対策、企業分析などを経験。おかげで周りの学生よりも早い時期から将来について真剣に考えることができました。また、大学入試に失敗していただけに、就活は失敗したくない、という思いもありましたね。


学生のうちに海外留学がしたかったけど、お金が無かった。ただ、インターンなら無料で滞在できると聞いてフィリピンの日系ベンチャー企業へ。約1ヶ月半、コールセンターで化粧水を販売しました。海外生活の経験を積めたのは大きかったですね。

インターンでは繊維商社にも行きました。思えばこれが、テキスタイルコンバーターになる1番のきっかけです。印象的だったのは社員がギラギラしていたこと。ものすごく忙しそうなんだけど、目を輝かせて、「あのコレクションブランドの生地、俺が作った!」と話していて。僕も本来、洋服が好きだったこともあり、「自分にはこれしかない」と思いましたね。それも販売員としてではなく、生地を作る立場として洋服に携わりたい、と。


子供の頃から洋服が大好きでした。買い物が1番の楽しみだったくらいです。友達と服装が被ったら「二度と着ない!」とか、親に買ってもらったにも関わらずそう言ってしまうくらいこだわりが強くて。あと、「それかっこいいね!」とか、「どこで買ったの!?」とか言われるとすごく嬉しかった。家族が洋服を好きなわけではないし、誰かに影響されたわけでもないんですけどね。



-言ってみるもの-

昔から大好きだった洋服の作り手になれる。心を躍らせて、就職活動を開始しました。海外にも目を向けてたのですが、ちょうどその頃、バングラディシュの縫製工場崩落の事故があったりして。同じ生地を作るのなら国内で作りたいという想いから、国内で生地を開発している企業に入ることを決めました。


結果、「キング」という婦人アパレル系企業に内定をもらいました。までは良かったのですが...。百貨店の営業職としての採用だったんです。生地生産に携わりたかったのに、このままだと叶わない。そこで、キングのグループ会社である『ポーン』に行けないだろうか、と。ポーンは『テキスタイルコンバーター』別注プリント服地卸の会社です。

ただ、新卒採用の募集がなかったし、当時すでに卒業3ヶ月前の12月。内定式もとっくに終わっている。だからダメ元で役員に「ポーンに行きたい!」と問い合わせてみて、ダメだったらニューヨークのFITへファッションの勉強に行こうと思っていました。


が。意外にも要望を聞いてくれたんです。驚きながらもすぐに夜行バスに飛び乗って東京へ行き、想いを伝え、ポーンへの配属を勝ち取りました。「やりたいこと」を自分のなかで明確に持ち、行動して本当に良かった。あの時、黙っていたら、今の人生を歩めていなかった。



-ターニングポイント-

沢山あるなかであえて1つ挙げるとすれば高校時代です。小学生の頃からずっと野球をやってきましたが高校ではレギュラーになれず、ベンチ入りもできなかった。あの時が人生のどん底でした。誰からも必要とされないし、居場所も無かった。ある意味、人生のポイントだったかもしれません。


あと、僕は人生の選択において家族に反対されたことが一度もありません。自分で決断したことに対していつも、2、3歩引いたところからそっと見てくれていました。小学生の時、「野球がやりたい!」と言った時もすぐにはじめさせてくれたし、繊維業界に入った今でも、陰ながら応援してくれています。そんな環境で育ててくれたことは、本当に感謝しています。




-メッセージ-

僕の周りでは、「安定、給料、福利厚生」などを求めて企業を選んだ人が多いです。今年で入社3年目。入社前のイメージと現状のギャップに苦しみそろそろ転職する人もいます。それぞれの判断軸があるけど、「現状に満足できていないのであれば、やりたいこと、好きなことを仕事にしてみて下さい」と言いたいです。


「そんな仕事は無い」と思っている人は時間をかけてでも探してほしい。難しいことじゃないと思う。自分は何が好きかな?と考えた時に、人と話すだとか、音楽だとか、食べることだとか、何かしらあると思うんです。「趣味として好きでいるか、好きなことを仕事にして極めるか」。僕の場合は好きな〝生地〟を仕事として極めることに決めたから、かけがえのない同世代の仲間にも出会え、仕事が面白くて楽しくて仕方ありません。

(終わり)

取材・編集:巻木 周平(マキギ)


ー第①回はこちらー