「今」を生きる。『城後 響』②
ボクシングに出会うまでは根っからの野球少年でした。2005年。北海道の駒大苫小牧が連覇した夏の甲子園決勝を、母親と2人で見に行ったんです。
今はヤンキースで活躍する田中将大が2年生ながら優勝投手になった姿に衝撃を受けました。小学2年から野球をやっていた僕はプロ野球選手になるのが夢でしたが、その時から「甲子園で優勝したい!」と思うようになりました。
高校野球を見に行ったのは人生初だったけど、いまでも記憶に焼き付いていて、離れません。
城後 響(じょうごひびき)/1993年生まれ/プロボクサー。高校3年でキックボクシングに出会い、大学からボクシングに転向。日本ランカー入りを目指す。戦績は7勝2敗
地元・大阪から甲子園に行きたいと思っていて、当時強かったのは大阪桐蔭とPL学園。
大阪桐蔭に行きたかったけどスポーツ推薦をもらえるような選手じゃなかったから、学力で入学できて、野球も強い学校を目指そうと思い、近代付属に進みました。
僕が中学3年の時に南大阪大会でPL学園に勝って、甲子園に出場していたんです。見学に行って、監督から話を聞き、入学を決意。偏差値が少し足りなかったためにめちゃくちゃ勉強して、なんとか合格しました。
入学後も一定以上の成績を残さないと練習に参加できない方針だったから、勉強と野球、どちらも全力で取り組む高校生活でしたね。
甲子園で優勝したいと思って入ったものの、パッとした成績は残せませんでした。2年の秋に初めてベンチ入りしたけど、レギュラーにはなれず、3年時にはベンチ入りすら厳しい状況。
野球よりも、学校の休み時間が楽しみ、という生活になってしまいました。結局、最後の夏は大阪予選の3回戦で敗退。甲子園の夢は意外にもあっさり終わってしまいました。
将来についてあまり深く考えていませんでしたが、整体師という職業に興味を持った時期がありました。
治療を受ける側として体の仕組みの話を聞いたとき、「おもしろいな」と思ったんです。
野球部引退後、現役時代に通っていた整骨院の先生に勧められて、専門学校のオープンスクールに参加しました。
実際に触れてみて、やっぱりおもしろいと思った。でも、両親や先生からは「専門学校に行くと、その道しか進めなくなる」と言われ、たしかに、と。
普通の大学ならいろんな出会いがあって選択肢は広がります。それでも整体師になりたかったらそこから学べば良いと思い、近畿大学への進学することにしました。この選択が無ければ、ボクサーになっていなかったかもしれません。
第1回でお話ししたように、プロボクサーになると決意したのは大学3年の時です。周りが就職活動の話を始めた時期でしたが、全く気になりませんでした。
〝あかんかったらあかんかったで、なんとかなるやろ〟と思っていたし、そもそも、自分がやりたくない仕事に就いてどうするのだろう?という疑問もありました。
僕の「やりたいこと」は「ボクシング」だった。その気持ちを我慢して、やりたくないことを仕事にするなんて想像できませんでした。
一般的には大企業に就職するのが良しとされているけど、その先に待っているのは「我慢の人生」です。そんなの、絶対に嫌だった。
先のことを考えこともありません。たとえば「3年後はどうなってるかな...」と不安になる余裕があるなら、今を全力で生きた方が良い。
明日死ぬかもしれないのに3年後のことを考えても意味がないです。だったら、その不安を解決するために努力すれば良いと思います。
僕は本当に「今を生きてる」というか、過去がどうでもいいわけじゃないけど、振り返るよりも今を最高の時間にしたいとしか考えていません。
自分の好きなように生きるのが一番です。失敗しても死ぬわけじゃないですから。何を優先するか。やりがいなのか、お金なのか、時間なのか。人それぞれの自由です。
親や奥さん、子供の存在を言い訳にして好きな道に進まない人がいますが、そもそも、反対されて「どうしよう...」と悩んでいる時点で違うかな、と。
本気でその道に進みたいと思っているなら親の意見を変えるくらい熱意を持っていないと成功しないと思うし、逆に、それほどの熱意があれば、必ず伝わると思います。僕はそうしてきたし、これからも変わりません。
終わり
取材・編集:巻木 周平(マキギ)