イケてる.com

24歳サラリーマンが、挑戦を続ける人たちの『イケてる』人生を掘り下げ、伝える、インタビューブログです。

-テキスタイルコンバーター・三川直樹-


-テキスタイルコンバーター・三川直樹-

『株式会社ポーン』でテキスタイルコンバーターとして働いています。馴染みのない職業だと思うのでまずは紹介から。テキスタイルコンバーターとは服地製造業のことを言い、服地の生産工場とアパレルメーカーの間に入る、別注生地問屋のことでもあります。国内外の工場と密にお付き合いし、アパレルメーカーやデザイナーから受けた要望を生地として具現化して、納品するまでが主な仕事です。


三川直樹(みかわなおき)/1993年生まれ/「株式会社ポーン」所属。少年時代から好きだったファッション業界へ進む。生地生産の企画から納品までを担当する「テキスタイルコンバーター」/全2回連載



-天職-

僕の場合、生産は国内工場100%。京都、新潟、秋田など、各地方にある染色工場に、アパレルメーカー・デザイナーからの要望を企画として詰めて、依頼する。それで終わりではなく、コストの選定や納期の管理、トラブルシューティングまで、リスクを全て自分で背負い、モノを納めていきます。企画の立ち上がりから生地をお客様に納めるまでが、僕の役割です。


ときには実験的に予算内で試作し、デザイナーにプレゼンすることもあります。自社(ポーン)が100年前のヴィンテージの生地資料を所有しており、それをもとに提案することが多いですね。開発した生地は縫製工場で洋服となり、その後、国内外問わず、実店舗に並びます。


生産に関わった洋服を、街中の人やテレビでタレントが着ているのを見た時に、これ以上ない喜びとやりがいを感じます。「誰かの為になっているんだな」と。実績を重ねるごとにそういった機会は少しずつ増えてきています。また、デザイナーさんから「コレクションにプリントがあって良かったよ」と言ってもらった時は、最高ですよ。

最も大事なことは、「引き出しの数」です。デザイナーが作りたいモノを具現化するためには、何より、知識と経験が必要。イメージを実現するための素材、プリントの技法など、覚えることがたくさんあります。やってみないと分からないことも多いので、とにかくトライしながら覚えていく。スケジュールに余裕がないことも多いため、決断の早さも求められます。


繊維の専門商社と違い在庫は持たず、バイオーダー(完全別注型)にて生地をつくります。素材、柄、コストも自ら選定するため圧倒的に裁量権があり、ものづくりに深く関わることができる。僕にとってはまさに天職です。トラブルも日常茶飯事ですが、それさえも楽しめるぐらい、やりがいを感じています。もともと飽き性で、ルーティンワークが苦手な性格でした。だから、0から創り上げていくこの仕事のスタイルが、自分には合っているのだと思いますね。



-唯一無二の存在に-

欧州でテキスタイルコンバーターを志す最高にクールな友人もいますが、僕は日本でやり続けようと、いまは考えています。世界中、どの繊維産地を見ても、生地づくりに最も長けた国は日本だと思うから。北陸の合繊、西脇の先染め織物、尾州の毛織物、和歌山の丸編み、児島のデニム。様々な種類の生地をつくる生産背景があります。どの分野にも万能な生地屋として、日本の各産地、また、世界で勝負しようとしているデザイナーの力になりたい。

この仕事は、「自分が商材であり、付加価値である」と考えています。感性やセンスの良さはもちろん必要。あとは、いかに豊富な知識と多才な人脈を持ち、沢山失敗して引き出しを持っているか。代わりのいない存在にならないと、この先のテキスタイル業界で必要とされません。逆に、誰かの唯一無二の存在になればそれが最大の武器となり、国内外問わず、活躍できます。


そのために、20代のうちは自己投資を惜しまず、チャンスと仕事は全て獲るつもりです。と同時に、人との繋がりを作っていく。この業界はタテヨコのつながりが本当に大切ですから。そして、将来的にはベクトルの方向が同じ同世代と、一緒に面白いことをしたいと考えています。高齢化が進んでいる業界ですし、若い世代にはチャンスが溢れています。



-産地の学校-

自己投資の一環として、17年5月から「産地の学校」に通っています。現職ではプリントがメインですが、近い将来、他分野の生地開発に携わるつもりなので、そのノウハウを習得するためです。同年11月からは「産地の学校 ラボ」という、より実践的なプロジェクトがメインのコースに所属しています。


現在、学校を通して出会った遠州のある機屋さんでモールスキンを試作していたりと、あくまでも、ポーンでの仕事とは完全に切り離して取り組んでいます。また、月に1度は他のメンバーと繊維産地を訪れ、新たな生産背景の開拓と、知識の深耕に注力しています。

繊維産地の人手不足は深刻です。賃金は安く、若い世代がなかなか産地へ入らない。外国人を雇う工場もあるけど、一定期間が経つと自国へ帰るのが一般的です。かつ、職人さんの高齢化が進み、後継者育成も重要課題です。ただ、僕の知る限り、各産地や東京には、この現状を打破しようと取り組まれている人たちが数多くいます。僕もその人たちに負けないよう、微力ながらできることをやっていきたい。


僕にできるのは、仕事を継続的に依頼すること。単発で大きな仕事を入れることも必要ですが、難しい仕事とそうでない仕事のバランスだったり。職人さんを急かすと、やっぱり良いモノはできません。信頼関係がなによりも大切。生産を依頼する工場さんも自ら選ぶので、デザイナーと打ち合わせをするときは、工場の「営業担当」であることを意識して話すようにしています。1つでも多くの仕事を継続的に依頼することが、産地のため、工場の為になると自負しています。


ー第2回につづくー

取材・編集:巻木 周平(マキギ)

自分に市場価値はあるか?『佐野 翔一』③


-独立-

フリーランス個人事業主でも良かったけど、肩書きがあった方が信用されやすいと思い、法人にしました。手続きを済ませて1週間後に『株式会社ALIEN』を設立。「エンジニアを増やす」ことをミッションとしています。

佐野翔一(さのしょういち)/1989年生まれ/「世の中にエンジニアを増やす」ことをミッションにしたキャリア支援系企業『株式会社ALIEN代表取締役兼、ネットワークエンジニア。社会科教員⇨IT業界と異色の経歴を持つ。主な活動は教員向けキャリア支援サービス〝edca〟(エドカ)の開発やエンジニア向けイベント「サポーターズ」運営など/全3回連載

ー第①回はこちらー

ー第②回はこちらー



-edca-

世の中ではエンジニアが不足していると言われています。しかし、それは、合っているようで間違えてる。〝できないエンジニア〟はたくさんいるけど、〝できるエンジニア〟が不足してるんです。学ぶ環境が整っていないから。エンジニアで実戦経験が豊富なのは10人中、1人か2人です。


Qiita(キータ)やGitHub(ギットハブ)といったエンジニア用ポートフォリオサイトを活用している人は圧倒的に少ない。そういう人材を増やしていきます。そして、転職対象者は教員に踏み切ろうと考えています。転職が難しい職業だけど、実は、「エスアイアー」に通じるスキルを持っているんです。


佐野さんが開発する〝edca〟⇨こちら

教師はたくさんプリントを作ります。分かるか分からないかのギリギリを突いて、生徒の課題を解決するのが目的。これが、エスアイアーのマネジメントスキルに近い。エンジニアにはプロダクトに愛はあるけどマネジメントに興味のある人が少ない。


だから、大きな会社、組織で働いていて、かつ安定志向で真面目な人。つまり、教師を当て込めば良いなと思っています。IT調整役に転職させて、育成し、また転職させる。いつまでも同じ環境にいると腐るのが人間だから、「転職して、収入上げようよ!」と必要とされる企業に行かせる。


そのフィーを使って新人(教員)を雇い、育成する。転職させた人間は待遇が良くなるから将来、僕に仕事をくれるかもしれない。そのサイクルを作りたいと思っています。ほかの活動としては、『サポーターズ』というキャリア支援のイベントにお世話になっていて、出会ったエンジニアとつながりを作っている。また、教員採用試験会場に行って名刺を配ることもありますよ。



-メッセージ-

嫌なのに会社を辞められない人の主な理由は、「給料が無くなるかもしれない」。ただ、会社に居ても、給料が無くなる可能性は十分にあります。リスクには種類があって、辞めるリスクと、辞めないリスク。どっちが大きいかという話になるけど同じ軸に無いと思うんです。自分の市場価値を客観的に見たほうが良い。


奥さんが...」とか、「子供が...」とか言う人がいるけど、他人のせいにしているだけ。やらない理由を作るのは簡単です。否定するつもりはないけど自分の人生は自分で決めないと。あと、思うのが、〝嫁がなぜ反対したのか?〟を考えないといけない。僕は、「嫁を説得できなかったから」という人が多いと思っていて、説得できなかった自分の実力不足です。


どういうことかと言うと、嫁は「旦那に継続した収入がなくなる事」に対して不安を感じているだけで、本質的に仕事を辞めちゃダメ、とは思っていない。今の状態を手放しても、より良くなるという確証が欲しいだけ。だから自信、実力がある人ならこうなると思う。


「なんで嫌なの?」
「収入、減るでしょ?」
「減らさなきゃいいんだろ。絶対減らさない。見とけよ」


反対されたからではなく説得力がない自分に原因がある。責任を自分に帰属する必要があると思います。

(終わり)


取材・編集:巻木 周平(マキギ)


第①回

[https://iketeru.hatenablog.com/entry/2018/08/06/203019:title=第②回 ]


日本教育は異常だらけ?『佐野翔一』②


-地球儀30個-

「学生時代に面白かった授業はなんだろう」と考えて授業を組み立てました。真っ先に思い出したのは高校の「倫理」。なんでも下ネタに例えて話すふざけた先生だったけど、興味の無い倫理の話を笑いながらも聞いていて、今でも覚えてるんです。「おもしろい」=「話を聞いている」。これだな、と思いました。

佐野翔一(さのしょういち)/1989年生まれ。「世の中にエンジニアを増やす」ことをミッションとしたキャリア支援系企業、『株式会社ALIEN代表取締役兼、ネットワークエンジニア。社会科教員⇨IT業界と異色の経歴を持つ。教員向けキャリア支援サービス〝edca〟(エドカ)の開発や、エンジニア向けイベント「サポーダーズ」運営など。

ー第①回はこちらー




地球儀を人数分買い、社会の授業で配りました。小さなサイズですが全部、自腹で。1つを30人くらいで見るのが一般的だけど、それだと頭に入ってこないし興味を持ってくれませんから。スマホを買ったこともありますよ。韓国の授業で「サムスン」が出てきたのでサムスン製のスマホを。さすがに人数分とはいきませんが、数台買って、こう言うんです。


Samsungって書いてあるでしょ? これが教科書に出てきた会社。韓国は悪い側面が報道されているけど、電子パーツを作ることに関してはすごい国。韓国発のグローバル企業もたくさんあって、決して悪い国ではないんだよ」


話を聞いてくれる仕組みを考えて授業に落とし込む。これが、教師のやるべきことです。




-日本教育の課題-

教員のなかには、「授業が上手くいかない責任は子供にある」と考えている人がとても多かった。「あいつは話を聞かない子だ」と。なぜ、聞いてくれるのが前提なのか?と思うわけです。そうなってしまう原因の一つが、教員を評価する人がいないことだと思っています。強いて言うなら校長先生だけど、主な仕事は地域のイベントに出ることで、授業は見ていない。


つまり、ほとんど学校にいない人間が評価をするんです。雑誌、新聞なら販売部数だし、テレビは視聴率。消費者の数字で評価されるのが世の中です。学校では子供が消費者にあたりますが子供が教師を評価する機会はありません。「授業アンケート」はあるけど半年に1回くらい。それじゃあ意味がない。授業の相談は本来子供にすべきです。学校は消費者主体じゃない。組織として成り立っていません。

教員の労働環境も悪すぎます。頑張れば頑張るほど仕事の負担が増える。「〇〇先生は働き者だね!じゃあ、これもやってよ!」みたいな風潮があって雑務がどんどん降ってくる。なのに給料は変わらない。残業代は出ない。副業もできない。これはダメだと。こんなことで教員の質が上がるわけない。


もっといえば、そもそも、子供が住んでいる場所だけで学校を決められることもおかしい。理由がないと転校もできない。異常だらけ。学ぶ場所を自分で決められないんです。この業界を変えるには違うアプローチが必要だと考え、26歳の3月に辞めました。離任式には出ていません。離任式に出たいわけじゃなくて授業がしたかっただけだから。



-起業しよう-

その後は携帯ショップ、パチンコ屋の清掃業、家庭教師などを経験し、半年経った秋に東京に出ることを決めます。大学時代の友人が東京のIT企業で営業をしていて、彼とは昔、将来を語り合う仲でした。「20代のうちに都会に出たいよな」とか「外回りの営業がしたいな」と話したことがあったん。すでに、彼はその生活を実現していたんです。「ミライエ」という会社だと聞き、すぐに履歴書を送りました。


彼に「履歴書送っといたから人事によろしく言っといて!」と。めちゃくちゃですけどそこはさすがITベンチャー。1週間後に人事から連絡がきて、スカイプで面談し、前職を辞めてから1ヶ月後には入社が決まりました。(笑)。やりたい!いきたい!と思ったらとりあえず行動する。なんとかなるもんです。

IT人材を企業のプロジェクトに合わせてアサインする営業です。日立ソリューソンズ、富士通、DMMといった大手企業も担当させていただきました。個人的にDMMか好きだったので後輩を粘り強く売り込んだらプロジェクトに参加させてくれました。


その後輩はなんと今、DMMでデータサイエンティストとして働いています。実績を重ねていくうちに、「人を育てる」ことに魅力を感じ、社長に相談したんです。「エンジニアとして現場に入って、社員を育てたい」と。でも、許可は得られなかった。本当にやりたいことができない状況になったら、行動は1つしかありません。


「よし、辞めよう」


起業を決断した瞬間です。


ー第3回につづくー

取材・編集:巻木 周平(マキギ)

-ALIEN代表取締役・佐野翔一-


-ネットワークエンジニア・佐野翔一-

「株式会社ALIEN」を経営するネットワークエンジニアです。僕はここまで落ち着きのない人生を歩んできました。不登校になったり、農家で働いたり、ホストになったり。と思えば教員になったり...。世間一般の「普通」とかけ離れた経歴ですが、いまは、好きなことに力を注ぐ人生を送っています。


佐野 翔一(さのしょういち)/1989年生まれ。「世の中にエンジニアを増やす」ことをミッションとしたキャリア支援系企業、『株式会社ALIEN代表取締役兼、ネットワークエンジニア。社会科教員⇨IT業界と、異色の経歴を持つ。主な活動は、教員向けキャリア支援サービス〝edca〟(エドカ)の開発や、エンジニア向けイベント「サポーダーズColab」運営など』/全3回連載



-マッドサイエンティスト-

静岡県に生まれたぼくは両親の影響で80年代の洋画が大好きでした。コンピューターが認知されはじめた時代で、SF映画ブーム。「ロボコップ」に「ショートサーキット」、「ターミネーター」。〝雷が落ちてロボットに感情が入っちゃう〟とか。めちゃくちゃな設定ですけど目を輝かせていました。


将来の夢は科学者。「マッドサイエンティスト」になりたかった。だだっぴろい駐車場に見張り小屋があって、その下に隠し階段があって、地下に秘密基地を作って、危ない研究をして、革命的な発明を...。そんなことを本気で考えてましたね。幼稚園のころで、共感してくれる人はほとんどいませんでした(笑)

興味を持つと周りが見えなくなるくらいどハマりする性格でした。映画も同じ作品を数えきれないくらい見ましたね。小学4年生で、その対象はゲームになりました。「モンスターを育てるのが楽しい」という感覚でポケモンにハマり、時にはスーパーファミコンにハマり...。当時の流行は64やゲームキューブですから「スーファミ」はレトロゲーム。これも、共感してくれる人は少なかった。(笑)



-教員-

中学で好きだった女の子が「先生になりたい」と言っていて、「こいつが先生になるなら俺も!」と。本当に落ち着きが無い。ただ、先生になりたい理由はもう1つありました。学校教育に疑問を感じていたんです。授業中に「話を聞きなさい!」と怒る先生がいるじゃないですか? でもそれは「授業より面白いことがある」から。漫画を読んでるなら、漫画>授業。変わるべきなのは先生なんです。


もう1つは「先生はその教科が好き」だけど、生徒はそうとは限らない。にも関わらず自分のやり方で教えて思い通りにならないと怒る。どう考えてもおかしいんです。こんな〝異常事態〟が平然と続いているのが学校です。ずっと疑問に思っていて、「先生になって、面白い授業をやってやろう」と考えました。でも....。


進学校を受験するも不合格。「この学校じゃなきゃ行かない!」と周りに豪語していたのに合格できず、恥をかきました。今思えば大した事じゃないし他の学校でも教師への道はあった。でも、落ち込んで、病んで、引きこもりになりました。中学校の卒業式も欠席。引きこもったまま、「高校浪人生活」に突入します。



-卒業しなくてもいい-

その後、群馬県の「嬬恋村」にあるキャベツ農家で働く事になります。地元に居ることが恥ずかしくて誰とも会いたくなかった。知り合いに頼み、農家に飛び込みました。朝4時に起きて15時に仕事を終え、そこから勉強する。そんな生活です。


半年間、農家で働いたある日、中学時代の友達に連絡を取りました。「俺が高校落ちたの、知ってる?」って聞いたら、「みんな知ってるよ! 当たり前でしょ!」と。いつまでも逃げていられないと感じて静岡に帰ることにしました。働こう、と。


高校卒業の資格は欲しかったので「静岡中央高校」に入学します。これが正解だった。定時制の学校で、〝訳あり〟の人間が多かったんです。不登校、高校中退者、不幸があって学校に行けなくなった人。自分も〝世間に適合していない〟少数派だったから居心地が良かった。「これでも良いんだ」って思えたんですね。


IT業界に進むきっかけも高校時代にあります。生徒会の会長が「パソコンオタク」で、〝こんなの常識だから使えるようになった方が良いよ〟と言われて、触るようになりました。あの出会いがなければ今は無いかもしれません。


稼ぐ喜びも覚えました。回転寿司と薬局でバイトを掛け持ちしていたのですが、毎月、キャッシュが回るのが楽しかった。パソコンを買ったり、ボーイスカウトとしてキャンプやボランティア活動を経験。本当に充実していましたね。 ただ、バイト中心で単位が取れなかった。2年生時点で卒業が怪しくなってきて、担任の先生に相談するとまさかの返答が。


『卒業しなくて良いんじゃない? 大学に行きたいんだろ?じゃあ、大学に行けば良い。高校をやめて高卒認定とって、大学の社会人コースを受ければ良い。お前は高校を卒業したいのではなく、大学に行きたいんだろ?』


高校中退は世間的に悪かもしれないけど、それが全てじゃないと教えてくれた。社会人枠。それでいいじゃん、と。静岡大学の社会人コースを受験して合格。高校を卒業せずに大学生になることができました。




-ホスト⇨教員-

念願の大学で真面目に勉強!となれば良い話なのですが、とんでもない寄り道をします。街中で「ホスト、興味ないすか?」と聞かれて何も考えずに「興味あります!」と答えてホストになりました。キャッチの人にはノルマがあって手当たり次第にをかけていたんだろうけど、「まさかこいつが」って顔してました(笑)。

少しでも興味を持つと勢いで行動しちゃうので、本当にホストとして働き始めます。話が得意なわけじゃないけど、お酒は強かったのでそこそこ稼ぎましたや。先輩のお客さんの要望でボトルを開けて、それでも潰れないからまた開ける、無限ループ。お客さんは面白がってくれて。「お酒飲んで金もらえるって最高じゃん!」と本気で思っていましたよ。


変な寄り道ばかりだったけど、教員になる夢は失いませんでした。教育実習に2度参加して、24歳で中学校の講師に。「おもしろい授業をする」と意気込んで、教育の現場に入ります。


ー第②回につづくー

取材・編集:巻木 周平(マキギ)

-モデル・杉山由紀子-


-モデル・杉山由紀子-

フリーランスモデルとして活動を始めて今年で8年目。電車広告や、雑誌に掲載されるスチール(カメラ)撮影が主な仕事で、ドレスショーに出演することもあります。現場でご一緒した方々やアパレル関係者、またその知り合いの方々。たくさんの人たちのおかげで大好きなモデル業を続けられています。


杉山 由紀子(すぎやま ゆきこ)/1986年生まれ。高校2年から芸能界入りし、現在はフリーランスのモデルとして活動している。




-芸能界-

高校2年のときにスカウトされてエキストラの事務所に入ります。最初の仕事は「めざましテレビ」で〝目覚ましくんを出す〟こと。指定された手の動きを撮影してテレビで見ると、その手から「目覚ましくん」が出てくるように見える演出でした。テレビっ子だった私が、視聴者には分からない制作側を経験できた。最高に面白かったんです。純粋な好奇心、というか、「あのテレビに関われているんだ」って。

「芸能界で自分は何ができるのか」と考えるようになり、様々なレッスンを受けました。ウォーキング、ダンス、演技にボイトレ、写真の取られ方、などなど。自分の適正を知るためです。その中で一番向いていると自覚し、楽しかったのがウォーキングでした。これなら頑張れる!努力できる!と思ったんです。


小さい頃から引っ込み思案で、人前に立つのは嫌いだし、すぐに顔は赤くなる。レッスンも苦痛でした。ただ、「自分を変えたい!」という思いがあったから心は折れませんでした。内気な性格がコンプレックスでしたから。その点ウォーキングは、練習すればするほど上手くなるから自分を堂々と表現できる。ドレスショー、ファッションショーにも出演しました。当時は高校生でバスケ部に入りながらバイトもしていましたから、ウォーキングも習い事の延長という感覚。仕事と言えるほどではなかったですが、それでも、心の底から楽しかったです。




-父の死-

18才の時にお父さんが亡くなりました。1年前まで何ともなかったのにいきなり「肺ガン」と診断されて。しかも、余命半年です。会社の定期検診は毎年受けていて、前年は見つからなかったのに、末期の状態で発見された。手術をしても助からない状況。本当に急すぎて...。今でも悲しくて、つらくて、寂しい。『なぜ?』という思いもあります。


ただ、その父が私の人生を変えてくれたと思っています。どれだけ頑張っていたとしても、人生にはいつか終わりが来るんです。だったら、本当にやりたいことをしなきゃ損だと強く感じました。当時はまだ将来の夢が定まっていなかったけど、2つの決断をしました。モデルに挑戦すること。そして、好きなことを続けていけるように、健康について学べる大学に行くことです。

大学で健康関連の勉強をしながら、読者モデル、アパレルショップの店員も務めていました。周りが就職活動を始める3年生になり、今の生活を続けるか、一般企業に就職するかの選択を迫られるのですが、そこでも、〝お父さんが背中を押してくれた〟。


「人生一度きり。やりたいことやらないと」


私にとってそれはモデルだった。簡単な世界じゃないことは百も承知。同じようにモデルを目指す人はたくさんいるし、しかも、当時私は22歳です。早ければ中学生から人生をかけて経験を積んできた人がいる世界で、今から勝負できるのか。不安はありました。でも、自分の人生。この感情を我慢したら一生後悔すると思ったから、就職活動は一切しませんでした。




-もし、余命1週間なら?-

母からは反対されました。安定した人生を送ってくれると思っていたのにまさかの「就活しない」。お金もかかってますから、最初の反対具合は本当にすごかったです。でも、何度も言いますが、自分の人生。今やりたいことを全力でやっておかないと、たとえば病気になって1週間しか余命がないと知ったら、意地でもやりたいことをやるじゃないですか?じゃあ、今、やらないと。だっていつ死ぬかわからないんだから。そうしないと「生きてきた意味がない」。そう、母を説得しました。


スカウトしていただいた事務所に入ったのですが、芸能事務所には一般企業と違う点がたくさんあります。たとえば給料の流れ。事務所の前にクライアント、キャスティング会社が入るから、実際にいくら事務所に届いているのか分からないことがあるんですね。それで、「翌々月になっても給料が支払われない」という問題が起こった。30万円。「趣味でやってる訳じゃない」と意見しました。女の子は立場が弱いから、折れちゃって、我慢して頑張る子もいたんですけど、私は言いました。

「どうなってるんですか?」。そう言い続けたけど支払われなかったので、事務所を辞めてフリーランスになることを決断しました。ありがたい事に、現場でご一緒した方々、アパレル関係者、その知り合いの方々。たくさんの人たちのおかげで大好きなモデル業を続けられています。フリーになった当時は仕事が無くなるんじゃないかという不安もありました。でも、所属することのデメリットをすごく感じていたし、フリーなら自分で仕事を選べる。好きなことに時間を使える。今はすごく楽しいですよ。



-楽しくなけりゃ、人生じゃない-

これまで、モデルとして「〇〇に出たい!」という夢を持っていました。でも今は「常に楽しいと思える選択をしたい」。フリーランスには常に新しい出会いがあります。スタッフさん、モデルさん。毎回違うメンバーに刺激をもらえるなかで考え方が変わる。学びたいこと、好きなこと、やりたいことがどんどん見つかります。そうなった時に、いかにすぐに動けるかを大事にしていきたい。

モデル業以外にもやりたいことがあります。父が亡くなり、1人になった母親を見て、『自分が健康でも周りの人が健康じゃないと意味がない』と痛感しました。だから、大学で学んだ健康の知識を人に伝えていきたいと考えています。食事法やダイエット法。周りの人に健康になってもらいたい。それに、モデル業に活きる部分もありますから。



-メッセージ-

他人に行動を決められている人はもったいないと感じます。他人の目を気にして意見を変えてしまう人も、もったいない。それは「他人の人生を生きてる」ということです。その生活に誇りを持っているなら良いですが、職場や生活環境に愚痴を言う人が多いですよね。自分の人生を生きている人は、愚痴なんて言いません。


私は『人生一度きり』ということをリアルに体験しました。多くの人は時間は無限にあると思いこんでいて、大切なことを後回しにします。それは間違っている。私はその考えを決して忘れることなく、生きていきますよ。

(終わり)

取材・編集:巻木 周平(マキギ)

-BAR経営者・吉田将伍-


-BAR経営者・吉田将伍-

小学4年の時に担任の先生から「遊ぶだけならバスケせえ」と言われたのがきっかけでバスケにハマりました。毎日怒られてるような子供でしたが、それがきっかけで変わったと思います。周りより少し上手で、中学、高校と続けることに。京都の東山高校にスポーツ推薦で進学し、2年生から試合に出て、3年生ではキャプテンに。全国的な強豪校で近畿大会2位という結果を残すことができました。


吉田 将伍(よしだ しょうご)/1994年生まれ。小学4年からバスケを始め、東山高校龍谷大学でともに主将。16年に化粧品会社で営業マンとして働き、17年4月から大阪・北新地でバー『ROI(ロワ)』を共同経営。


大学でもバスケを続けます。監督が居なかったので「キャプテン兼監督」という立ち位置で、高校の時に比べれば楽しくプレーした記憶があります。プロになりたいという思いは無くて、3年の秋頃から就職活動を始めました。志望業界はハッキリしていなかったけど、「いつか独立して金儲けしたいなあ」と思ってました。ヤラシイですけど(笑)。

社会経験だけ積めれば良いと思っていたので、「家が近い」という理由で地元の化粧品会社に就職しました。独立するにしても一回くらい社会人を経験しとかなあかんな、と。でも、実際にサラリーマンとして働いてみるとすぐに「違うな」と思い始めます。バカにしているわけではないけど、自分のやりたいことを考えるたびに「これ、意味あるのかな」と思うんですね。そんなに低い意識で働いて、お金をもらう事も嫌でした。楽しくもないし、「時間がもったいない」と思うようになりました。



-相方-

「いつか一緒に、何かやりたいな」。
そう話していたのが大学時代からの親友で、のちにバーを共同経営することになる大ちゃん(山根 大輝)です。大ちゃんも一度はサラリーマンを経験したけど半年で辞め、複数のバーでバイトしたりしながら独立できる道を探してくれていた。僕も働きながら大ちゃんと会う時間を作って話していくうちに「飲食系をやろう!」と方針が固まりました。

いくつか「やらないか」と話をいただくこともありましたが条件が合わず、なかなか決まらなかった。そんななか、大ちゃんがバイトしていた「ROI(ロワ)」のオーナーから「やらへんか?」と話をいただいて。経営方針は自分たちで決められるとのこと。場所も、いろんな人が集まる北新地。「こんなチャンスはない!」と思って即決しました。大ちゃんのおかげです。ずっと動いてくれていたおかげでチャンスが来たわけですから。



-〝雑音〟なんか聞こえない-

「ROI」を譲り受けた時に僕はまだサラリーマンだったのですぐに辞める意思を会社に伝えました。めちゃくちゃ反対されましたよ。会社はもちろん、家族関係はブーイングです(笑)。特に親父には「サラリーマンとして生きのが普通やろ!」とかなり怒られました。でも、思うわけです。「普通って何?」と。自分の選択が世間の「普通」と違っても、そんな事にとらわれたくない。自分のやりたい事をするのが人生ですから、反対意見なんて聞こえませんでした。3月に退社し、4月から「ROI」の経営がスタートです。

めちゃくちゃ楽しいです。休みは少ないし(日曜のみ)2日酔いの日も多いですけどやっぱり楽しい。一番は、元々は知らなかった友達同士が「ROI」という一つの空間で仲良くなっていくところを見た時です。なかなかできない経験です。知り合い同士が仲良くなって、知り合い同士が遊びに行って、また一緒に店に来てくれる。"俺がつなげた"は言い過ぎですけど(笑)。これから先それがビジネスに発展するかもしれないし。色んな面で、やりがいを感じてます。




-悪性リンパ腫-

まさかでした。オープンして5ヶ月が経った9月に首のリンパ節が腫れてきて、体調も少し悪くて...。病院なんか行ったことなかったけど、大ちゃんから勧められたので診察に行きました。「薬もらって、さっさと呑みに行こう」。と軽い気持ちでしたが、「大きい病院に行ってください」と言われた。再検査を受けると、「『悪性リンパ腫』です」って。


信じられる訳がない。「僕まだ、23ですよ。そんなことあるんですか?」って聞いたら「その可能性が高いです....」と。宣告された瞬間が一番しんどかったです。進行具合が分からなかったから、「もしかしたらこのまま...」とまで考えました。後日、手術すれば完治率約90%の「ステージ2」だと分かり、ホッとしたことを覚えています。

無事手術は成功し、約3週間で退院。しばらく自宅療養が続いたなかで自分の考え方が180度変わっていることに気付きます。これまでは「独立して他人と違う景色が見たい!」とか、「お金持ちになりたい!」と思っていたけど、ガンを経験してからは「やり残していることは何やろ。本当は何がしたいんやろ」と考えるようになりました。そこでふと、頭に浮かんだのは「社会貢献とか、人に役立つことがしたい」という思いでした。


世の中お金だけじゃない。誰かのためになりたい。それも、会社や組織に所属してじゃなく、自分の力で。まずは店の土台を作って自分達より若い子に引き継げるまで育てたい。その後は相談しながら方針を決めていきたいですが、最終的に僕は、「村」を作りたいと思ってるんです。本気です。

誰もが縛りのない生活ができる場所。
観光地として人がたくさん来てくれる場所。
しがらみのない環境で農業したり、学校を作ったり、マイペースに過ごせる場所です。

まだまだ構想段階ですけど、いま、出会える方々を大切にして、将来本当にやりたいことに、挑戦していきたいと思ってます。




-メッセージ-

偉そうなことは言えませんけど、僕は良い意味でも悪い意味でも、一度死にかけた。だから皆さんには「生きていれば何でもできる! 」と思ってほしいです。不安で最初の一歩を踏み出せない人が多いと思うけど、リスクを恐れず踏み出せば良い思う。僕も最初は周りの人に反対されましたけど今はめちゃくちゃ楽しいですよ。

(終わり)

取材・編集:巻木 周平(マキギ)

-金融機関営業マン・山田直-


-金融機関営業マン・山田直-

静岡・浜松商業でセンバツ甲子園優勝。現在は浜松湖南高校野球部監督。そんな父親ですから野球をやるのは生まれる前から決まっていました。父が監督として甲子園出場した時には、アルプススタンドで『監督の息子さんです!!』とインタビューを受けたこともあります。そんな幼少期を過ごしたあと、小学1年から野球人生をスタートさせました。


山田直(やまだ あたる)/1994年生まれ。株式会社イコールワン/甲子園出場⇨名門大学レギュラーと王道路線を歩みながら「野球で終わりたくない」との思いで就職活動に専念し、現職。


-プロになれないのなら...-

父の高校ではなく「静岡高校」に進み、高校2年夏に甲子園の土を踏むことができました。が、全国レベルの選手を間近で見たことで「プロは無理かな...」と感じるようになったんです。現実を痛感して自信も少し失いました。それでも大学までは続けようと思い、「中央大学」へ。高校時代の先輩が在籍していたことと甲子園のスターや、プロ注目選手が多いのも知っていたので、そのレベルで勝負してみたいと思い、進学を決めました。

1年時から試合に出られて2年秋からレギュラーになり、最高学年になった3年の秋。大学野球はこの時期に野球専念組と就職活動組に分かれるのですが、僕は副キャプテンで試合に出られる状況にも関わらず、就職活動を選びました。プロ野球選手になれないことは分かっていて、その世界で1番上のステージに立てないのにこのまま続けても意味が無い、と思ったんです。人生は人それぞれ。僕の場合、ユニフォームを脱いでも社会人として輝くために就職活動に全力を注ぐべきと考えたんです。チームに迷惑をかけてしまうという思いは当然、ありましたが、就活をスタートさせました。



-活路はSNSにあり-

「スケールの大きな仕事で野球に携わりたい」。目標を立てて臨みましたが簡単にいくはずもなく、第一志望に落ちてしまいます。他にも採用過程だった企業が数社ありましたが、「本当に行きたい会社か?」と問われたら即答できる状態じゃなかったから途中で断りました。周囲は内定が決まり始めている時期ですから焦りはありました。それでも、「何か違うな..」と。


道を開いてくれたのはSNSです。進路に悩む学生向けに「相談があれば、誰でも会います」と発信している人がいた。焦っていた僕はすぐに数人にダイレクトメッセージを送りました。経営者やコンサルタント、いろんな方に相談した結果、口を揃えるのが「本当にやりたいことをやりなよ」。「周りに合わせて無理やり就職する必要はないよ」といった言葉。ハッとしました。それまで考えていた仕事は心から「やりたい!』と思えることじゃなかったんです。


2月に転機が訪れました。コンサルタントとして独立している方に相談するため連絡すると、「明日の朝空いてる?」と言われたので翌朝8時に青山のスタバで待ち合わせして、「働かせてください」と言いました。時期も時期だから相当焦っていました。その方の仕事ぶりや人間性に憧れていたことがあっての行動でした。ただ、返答は「会わせたい人がいる」。そういって紹介していただいたのが、いま、僕が務める「イコールワン」の安田社長でした。




-「働かせてください!」-

安田社長は外資系保険会社から独立して、「イコールワン」を創業した人。早速、連絡すると「本日の夜。または、明後日から沖縄に行くので、どちらかで時間取ります。2つとも無理なら、来週以降で日程を合わせましょう」と。沖縄!?と思いましたが、「今日も明後日からの沖縄も、どっちも会ってください!」と言ったんです。今思えばぶっ飛んでますけど(笑)。おもしろい!と思ってくれたみたいで。その夜に初めてお会いして金融業界についての話を聞きました。感想は、「この人はすごい」。


本能的にそう感じたんです。大手企業で結果を残しても満足せずに起業して活躍している。しかも当時の安田社長は28歳。「俺もこの年齢の時にはこんな人間になっていたい」と心から思ったんですね。その後の沖縄というのはプロ野球のキャンプ地訪問で、選手が安田社長のお客さん。そこで、本来思っていた「野球に携わりたい」という夢にも一致することに気が付いたんです。そして、沖縄最終日。忘れもしない2月12日です。安田社長と2人でカレー屋に行った際、僕から切り出しました。

「一緒に働かせてください!」
「覚悟、できてる?」
「はい!」
「じゃあ、がんばろうぜ」

これで入社決定です(笑)。正直イコールワンがどんな会社かは詳しく理解していなかった。でも安田社長は大手企業で活躍していた現状に満足することなく、「もっと良いモノを作れる」との思いでゼロから会社を立ち上げた。それが何よりかっこ良かった。


また、歩合制の企業ですから努力と結果に応じた評価を得られることにも魅力に感じた。迷いはなかったですね。イコールワンは新卒採用なし。金融業をはじめ営業職で結果を出してきた人が大半で、飛び込んでいくのは怖かった。でも、「リスクを取らないことがリスク」って言葉を信じていて、「死ぬことはないだろう」と思い挑戦しました。


大学野球の経験も大きかったと思います。高校に比べれば自由な環境で、練習するもしないも自分次第だったんです。そこで痛感したのは「やってもやらなくても良い環境では自分は頑張れない」ということ。試合にも出たし、さぼっていた訳ではない。でも、限界まで自分を追い込んだかと聞かれたらそうじゃない。だから、社会人というステージでは、自分のケツを叩かないと生きていけない環境に身を投じよう!と思ったんです。



-「寝てる」or「働いてる」-

1ヶ月の研修期間で金融知識から商談まで、全てを叩き込みました。休みなんかありません。当時は働いてるか寝てるかのどちらかでしたね。教わって印象的だったのは、『わからないことを、〝わかりません〟と言えるのは素晴らしい』ということ。


分からないまま放っていた僕に対して「謙虚じゃないね」と言う先輩がいました。「そのままにしておくのは謙虚じゃない。傲慢だ」と。知らない世界だから分からないのは当たり前で、恥でもなんでもない。そうやって学んでいくんだと実感しました。金融の営業マンとしてのスキル、考え方を詰め込み、5月にいよいよ現場デビューです。

1人目のお客さんはマスコミで働いている高校時代の野球部の同期でした。初めての商談は下手だし、テンパるし、ドタバタだったんですが、「直だから任せるよ」と言ってくれた。初めての成功体験ですし、何よりその気持ちが嬉しくて嬉しくて、一生忘れられません。プロ野球選手や競輪選手も担当させて頂いており、そういった方々と接することができるのも魅力的です。何かに没頭している人と話すのはやっぱり楽しい。


目が輝いていて、愚痴なんか絶対に言わないし、自分の職業に誇りを持っている。刺激をもらえるし、学びにもなります。金融業界は、悪いイメージを持っている人が多い。不誠実で、実際に騙されている人もいるんですね。そんな業界を変えるための「イコールワン」。保険、証券、不動産といった商品をお客様に合わせて提案できる「ファイナンシャルプラットフォーム」です。


僕の場合、商談の際にはまずその事実を分かってもらい、自分を理解してもらうことから始めます。その上で、2回目お会いしていただければ、サービスを提案する形です。実績を重ねていき、たくさんの人の人生の「思い出」に現れたい。あの時、山田さんがこう言ってくれたからこうなれた、と。感謝される存在になりたいです。



-ビジネス界の阿部慎之助に-

出身の中央大学野球部はプロ野球選手が多く、僕の現役時代にはグラウンドに来られる機会がありました。オーラバリバリの人とたくさんお会いして、「こんな人間になりたい!」と思っていたんです。特にジャイアンツの阿部慎之助さんが印象深く、歩いてるだけで周りがザワつくくらい規格外のオーラでした。僕は、ビジネス界でそういう人間になりたいんです。スーツ姿でグラウンドに来て阿部さんのようなオーラを放つ人は今までいなかったんじゃないかと。

だったら自分がなってやる、と思っています。野球に使ってきた情熱や力を全て仕事にぶつけて成果を上げる。野球選手じゃなくても偉大な人間になれるということを、結果で示したい。学生時代にスポーツをめちゃめちゃ頑張っていたのに就職すると会社の愚痴を言ったり、「月曜日嫌だなー」と言っている人が多く、仕事に対して良いイメージを持っている学生が少ないと感じます。だから僕が、そんな人たちに勇気を与えられるようなビジネスマンになりたい。




-メッセージ-

休日のために我慢して働くような仕事内容ならすぐに辞めた方が良い。本当にやりたいことに力を注いだ方が絶対に良いと思います。行動しないと何も分かりません。結局は、決断できるかできないか。決断の先には何かある。もし失敗してもまた挑戦することを探せば良いと思います。挑戦を続ければいつかは成功するだろうと。失敗しても死ぬわけではないですから。そこに怖さを抱いて嫌な仕事を続けるってのは、本当にもったいないと思いますよ。

(終わり)

取材・編集:巻木 周平(マキギ)